豆腐屋かくじろう

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help リーダーに追加 RSS いやー、泣いたよ

<<   作成日時 : 2008/12/11 19:47   >>

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泣いたね、久しぶりに

昨日の「ザベストハウス123」
「心に響くラブレター」。

どれも感動した

「知覧からの手紙」ひとりで大号泣だわっ

私には失われた純粋な心だね。

あんまりにも感動したんで

ここに書いてみた。

ついでに貼り付けとこ



あふれる想いが止まらない!心に響くラブレターBEST3
第1位:特攻隊員が魂を綴った、最期のラブレター
 『穴澤利夫・孫田智恵子』それは、1945年。終戦間際の4月。或る特攻隊員が、婚約者に宛てて書いたラブレター。特攻隊員の名は、穴澤利夫少尉。婚約者は、孫田智恵子さん。1941年の夏。二人は、東京で出会った。穴澤は大学生だった。その年の12月8日。日本の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が勃発。時代は、混沌としはじめた。翌年1月、智恵子は、突然、穴澤に呼び出される。「僕と付き合ってもらえませんか?」。当時は、男女の自由恋愛など、まだ一般的ではない。はっきりしない態度を取りつづける智恵子に穴澤は1年間、自分の思いを伝え続けた。だが…なんと、穴澤は、自ら戦闘機の操縦士に志願。まだ大学生は、徴兵を免除されていた。だが、真面目な穴澤は、国を、そして自分の大切な人を守るために、あえて志願したのだ。1943年10月。穴澤は、最も戦死率が高い、陸軍航空隊に入隊。この頃、戦況は日増しに悪化。穴澤に、いつ出撃命令が出るか、予断を許さなかった。そんなある日…軍から外泊許可が出た穴澤が、智恵子に会いに来た。二人は、この時、始めて死を意識した。特攻とは、片道だけの燃料を積み、戦闘機ごと、敵の戦艦に体当たりする作戦。日本は、そこまで追い詰められていた。彼がいつ、出撃するかもしれない。智恵子は、その気持ちを綴る。航空兵が、常に首もとに巻く、白いマフラーを自分になぞらえ、いつも一緒にいたいと告げた。それは、智恵子の精一杯のプロポーズだった。しかし、届いた返事には…還らざる任務。頭の中が真っ白になった智恵子は、穴澤の下に駆けつける。2日後、ようやく会えた穴澤は、智恵子のマフラーを巻き、その上に自分のスカーフを重ねた。それは、あなたのマフラーになりたいという、智恵子のプロポーズへの返事だった。二人の心は、一つになった。1945年4月12日。穴澤利夫少尉は、還らざる任務に付く。鹿児島県、知覧特攻基地から出撃。そして…沖縄の海に散った。享年23。その事実を、智恵子さんは、知らされていなかった。だが…出撃の直前、穴澤は、最期の手紙を書いていた。そこには、死を前にして婚約者を思う、切ない気持ちがあふれている。「二つ、観たい絵。ラファエル「聖母子像」、ほうがい「悲母観音」。三つ、智恵子。会いたい、話したい、無性に。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに、朗らかに笑って征く。 利夫。」最後の最後に刻まれた言葉。それは、死を前にした男の純粋な未練だった。穴澤が、飛び立つ直前の貴重な写真がある。整列する兵士を、後ろから写したものだ。よく見ると、スカーフの下には、智恵子さんからもらったマフラーが。穴澤少尉は、愛する人への思いをしっかりと抱き、大空に飛び立ったのだ。その最期の手紙には、戦争という運命に向き合った、一人の若者の愛が刻まれている。


第2位:南極へ愛を込めて 3文字のラブレター
 『大塚正雄・恒子』戦後まもない1957年、大塚恒子さんが、夫・正雄さんに宛てたラブレター。その前年の11月、日本初の南極観測隊が派遣された。正雄さんは、その一員だった。マイナス40度。極寒の南極。大塚さんは、妻に相談一つせず、南極行きを決めていた。夫は、元海軍の軍人。妻は、うなずくしかなかった。大塚が参加する第1次観測隊の使命は、基地を作り、観測や調査の環境を整えること。そもそも、南極で冬を越せるのか、実験の意味も込められていた。命の保証など…ない。隊員のほとんどが、出発前に遺書を書いた。恒子さんは、心配で胸が張り裂けそうだった。短い夏の間、大塚さんが整備する輸送車をフルに使い、基地の建設が急ピッチで行われた。建物は4棟。秒速80メートルの風にも、耐える設計だった。冬を越す準備は完了。大塚さんを含む11人の越冬隊が、南極に残された。いよいよ冬が始まる。時には、風速30メートルを越す、台風のような吹雪が、丸2日も続く。それでも隊員は気温や湿度、生物についてなど、調べる。あらゆる情報を、毎日、日本へ送る。モールス信号。電報だけが、南極と日本をつないでいた。だが、南極の夜を彩るオーロラが発生すると、磁気が乱れ、モールス信号は使えない。そして、昭和基地に新年が訪れる。家族からの年賀電報。それは、日本と南極をつなぐ唯一の手段、モールス信号で届いた。だが、モールス信号は、あくまで公的なもの。家族からの電報は、短くしなければならなかった。それでも、極寒の地に閉じ込められた隊員は、喜びに沸き返る。その時、妻からの電文を見た大塚さんは、言葉を失う。そこには、恒子さんが、全ての思いを込めた、わずか3文字の言葉が刻まれていた。「アナタ。」それは、たった3文字のラブレター。寂しさや不安、押さえきれない愛情を、恒子さんは、このわずか3文字に込めていた。1958年2月。第1次越冬隊は、任務を終え全員、無事、帰還した。越冬隊が戻る日本には、夫を信じ、わずか3文字に全ての思いをこめた妻が、待っていた。余計な言葉はいらない。大切な人へ、真っ直ぐに愛情を届けるラブレターだ。


第3位:4千500通のラブレターへの返事
 『谷藤繁・幸子』それは、捕鯨船の乗組員、谷藤繁さんが、妻に宛てた生涯唯一のラブレター。出会いは、1961年。後に妻となる幸子さんは、当時、北九州の食堂で働いていた。交際3年目のある日。繁さんからのプロポーズ。二人は、木造二間のアパートで暮らし始めた。だが、引っ越し早々、繁さんは、日本から、1万3000キロも離れた南氷洋へクジラ漁に行ってしまう。半年以上もの間、海の上ですごす。一人、見ず知らずの土地で、寂しく、繁さんの帰りを待つ幸子さん。彼女は、心につのる思いを、手紙にしたため始めた。「いい奥さんになるために努力します。サコも精一杯生きて、美しくなって、父ちゃんを恋し続け、お待ちしています。」だが、辛い現実があった。まだ入籍していない。繁さんの給料は、実家に振り込まれる。幸子さんは、肩身の狭い思いをしていた。そのみじめさに耐えきれず、幸子さんは、彼の親兄弟の了解の下、一人で婚姻届けを出した。翌年の春、繁さんが、南氷洋から帰ってきた。そして、1965年5月、二人は無事、結婚式を挙げる。まもなく子供を授かった。だが…初めての子供が生まれるのを待たず、夫は再び、行ってしまう。一人で、生まなければならない。涙が止まらなかった。幸子さんは、夫に手紙を書きつづけた。1966年1月。幸子さんは、長男、健太郎君を出産。元気な男の子だった。しかし、その喜びを分かち合う夫は、いない。妻は、その寂しさを手紙に託すしかなかった。夫の帰りだけを生き甲斐に、幸子さんは、必死に生きていた。翌年には、長女が誕生。出産、育児、そして引っ越し。家族の大切な節目を、妻はいつも一人で乗り越えた。そして、その全てを手紙に書いた。子供たちは、お父さんに手紙を綴る、母の姿を見ながら、大きくなった。だが、時代が大きく変わる。世界的な捕鯨反対運動が盛り上がり、1988年、商業捕鯨が全面禁止に。繁さんは、調査捕鯨を続け、6年後、船を降りた。この時、二人はともに60歳。幸子さんが、30年間、毎日のように書き続けた手紙は、4千500通にもなった。その一つ一つに、夫への限りない愛がこめられている。二人の、静かな暮らしが始まった。そんなある日。繁さんは、一枚の走り書きを、幸子さんに手渡す。それは、4千500通のラブレターへ、夫が書いた、精一杯の返事だった。「南氷洋で、クジラを追いかけて、生涯のほとんどを費やしてきた男と、一生懸命、一人で子供を育ててきた妻とのこれからが新婚生活ではないだろうか?」「もう、シケの海とも、流氷の恐怖ともオサラバだ。これからがオイラとカアちゃんの青春だ。 シゲより。」4千500通の妻の愛に応えた、海の男のラブレターだ。

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